夜光町の由来
ここ夜光町は、当地の名刹・真言宗智山派 大本山川崎大師平間寺の発祥について、きわめて重要な意義をもつ土地であります。
今を去る八百五十余年前の大治年間、もと尾張(いまの愛知県名古屋地方)の誉高き武士であった平間兼乗は、無実の罪でその地を追われ、諸国流浪の果て、ようやくこの川崎の海辺に辿り着き、漁猟をして貧しい生計をたてていました。深く仏法に帰依し、とりわけ弘法大師を崇信していた兼乗は、いわゆる四十二歳の厄年でしたので、日夜、災厄消除を祈願しつつ生業にはげんでいました。
その頃、この浦に夜になると明るく光り輝いている場所がある、といって村人たちも不思議がっておりましたが、ある夜、ひとりの高僧が兼乗の夢まくらに立って、「我、むかし唐に在りしころ、末代有縁の衆生を救わんがために大誓願を起こし、厄除のわが像を刻み、海中に放ちしことあり、己来、未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに綱し、これを供養し、巧徳を諸人に及ぼさば、汝の災厄変じて福徳をなり、諸願のまた満足すべし」 と告げられました。
兼乗は、この不思議の夢に歓喜し、すぐさま真っ暗な夜の海に舟をすすえ、海上その光明の輝くところに一網打ち込みますと、夢のお告げのとおり弘法大師の尊像が網に入ってまいりましたl。
隋喜した兼乗は、小堂を建て像を安置して朝夕の供養を怠りませんでした。そして後に、高野山の尊賢上人と力をあわせ、その尊像を 「厄除弘法大師」 と称えて本尊とし、一字を建立、平間兼乗の性をとって 「平間寺」 としましたが、これが現在の大本山川崎大師平間寺の草創であります。
この川崎大師の出現した土地一体は、のちに大師河原とよばれるようになり、そのむかし、夜々光明の輝いたといわれるところを、誰いうとなく 「夜光島」 と呼び伝え、受け継がれた今日に至り、夜光町の名があるのであります。
昭和五十六年六月吉日 川崎大師観光協会
川崎大師観光協会の案内板より
「夜光町の由来の記」 ときされた木製の碑。
夜光の交差点からほどなく千鳥運河にかかる千鳥橋(ちどりばし)に出る。千鳥橋には親柱が欄干とは離れて車道側に立っていてモニュメントのようになっている。見にくいが沢山の千鳥が飛んでいる様子が金属で表現されている。
「ようこそ川崎港へ」 と記された東扇島の案内板には島全体の航空写真の他、重要な施設の個別写真もある。
道路を横切るように貨物の引込み線が通っていた。線路の状況を見ると光り具合から、時々は使われているようだった。