由来
往古、子安の地、江戸品川より一望広潤、渡るものなき海岸、風は青
松をわたり、波、白砂を揺す。鵜の森の大樹亭々としてそびえり、魚群を報
す啼声又しきなりと。屓曳きなしたる、阿房上総、富津岬や観音崎指畔
の中に本牧の鼻、浮べ流せし真帆白帆、今選んで建てたる記念碑のこの
あたりは、父祖の守り育て汗したる漁場なり。
明治17年(1884年)東京内湾漁業組合にいち早く参加、朝夕東京
横浜市民に生鮮魚貝を供膳す。
明治36年(1903年)子安浜漁業組合を設立。
憶えば、親から子へ、子から孫へと500有余年の幾春秋、その折々に
ふさわしく漁業もて職業奉仕、社会奉仕に盡したり。国運の隆替、緜市
政の変革意想外にして、漁區われらの協力により次々と埋立てられ、工
場群林立し巨船大船接岸する貿易港大横浜と化る。更に、港湾施設拡大
の声とみにたかまり大黒埠頭の建設を大乗的見地からその埋立てに同意し
全面補償の調印を行へり、時、昭和46(1971年)年9月22日なり。
伝えられし漁業、今茲にその任終り、父祖の労苦に感謝し、併せ子孫
の繁栄を祈願しつつ、両組合議り以って新しき道標を高く広く建設し
後史の照覧に供す。
昭和55年(1980)年10月吉日
子安浜漁業協同組合 建立
西神子安浜漁業共同組合 建立
鎮守一之宮神社宮司 浄階 一級職 萩原英政 撰文之
大黒ふ頭中央公園記念碑より転載
大黒ふ頭の埋立てに協力した子安浜漁業協同組合の組合員の名が刻んである。
こちらは西神子安浜漁業共同組合の組合員名。