三浦市最高峰岩堂山登頂記03 引橋(ひきばし)続



引橋の三叉路から霊場を過ぎてすぐに引橋という地名の由来となった谷に差し掛かる。いまは新しい引橋が架かっていて当時を偲ばせる。自動車の人は気にも止めないだろうが、歩いていると立ち止まってしまう。

引橋


横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が時の執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その孫、盛時から八代目の時高が永享十年(1438年)新井城を油壺に構築し、本拠を三浦に移しました。
この時高は世継ぎの問題から養子の義同を争い、明応三年(1494年)新井城で自殺するに至ったとの説があり、三浦の城主となった義同は当時小田原城を根拠とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市の両市にまたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、最期のたのみを新井城に託して守りを固めました。ここ引橋はそのときの大手、つまり外敵防御の第一線であったといわれ、谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄せてきたとき、その橋を引いて防いだところから引橋の地名が起きたと伝えれています。
三浦市



引橋の解説板の横には小さなお地蔵様がいて花も飾ってあった。


現在の引橋。道の左手、東側が大きく落ち込んでいて下を見ると結構怖い。この先にも同じような橋があるが、そちらも東側が大きく落ち込んでいて橋と言うよりは崖に道路が走っている状態である。





見所は多かったが、そろそろ岩堂山を目指せとうながすように、左に分かれ道がある。ここが松輪入口の三叉路で、左手は松輪港に向かう道である。岩堂山も左手の道を進むので、左の道を入る。こちらは通行量が少ないので道は狭いが歩きやすい。


すぐに左に急カーブがある。このあたりは標高が少しずつ下がる印象になる。

道路の周りは一面畑でスイカやトマトなどが植えられていた。行く手の右方向に風力発電の風車が二基見えた。たしかに風が当たりやすい場所なので効率はよいのだろう。