右への入る道が細くて見逃しそう。
良く見ると案内標識も出ているのだが判りにくい。
道といっても階段なので右方向に注意しながら歩いていけば、見つけられるだろう。ここからは山手公園まで一本道になる。
テニス発祥の地らしく公園内にはテニスコートが沢山あって常に満杯状態。
ここが山手公園の入口。唖然とするばかりのこの簡素さは何だろう。最近の公園は立派な門柱や標識が当たり前になっているので、日本最初といううたい文句が標識に躍っていると思ってたのだが。
山手公園の入口に日本のテニス発祥の地の記念碑が立っている。後ろのテニスコートの金網や生徒募集の看板に押されて記念碑も窮屈そうだ。
日本庭球発祥之地
山手公園は1870年(明治3年)横浜の居留地外国人のレクレーションの場としてつくられた。1878年レディース ローン テニス アンド クロッケークラブ、現在の横浜インターナショナルテニスクラブがこの地に5面のテニスコートを建設した。
この地は日本のテニスの発祥の地とせれている。
昭和53年10月15日 横浜インターナショナル テニス クラブ
山手公園の日本庭球発祥之地記念碑より転載
山手公園の入口から入って真っ直ぐ行くと 「横浜山手テニス発祥記念館」 がある。自由に見学も出来、テニスをやっている人ならば興味は湧くのではないだろうか。500年まえの硬いハエたたきのようなラケットも展示されていた。
かつて使われていた色々なラケット。
ご婦人方はこんな服装でテニスをしていたらしい。歴史的な写真も多く資料としてはとても充実している。しかも無料なので一度は足を運んでみるのも無駄ではない。
テニスってそんなに楽しいものなのか? と不思議に思うくらいやっている人達は夢中になっている。私は数回しかやったことは無いが、思うように球は行かないし、ただ疲れただけだった。
山手公園開設120周年の記念碑が立っている。この碑が建ったのは平成2年の6月だが、開設が明治3年(1870年)5月6日なので、そのうち開設150周年もやってくる。その時にも記念碑を建てるのだろうか。誰とは言わぬが石物の好きな市長さんの時代には、市内に記念碑がやたら建ち、その市長の名前が石に刻まれている。この記念碑にある高秀秀信元市長の事ではない。高秀元市長の名前が書かれた石は非常に少ない。
横浜地域史跡 日本最初の洋式公園(山手公園)
登録年月日 平成8年11月5日
所在地 中区山手町230番地
所有者 横浜市
登録区域 中区山手町230番地の一部
横浜在住の外国人の間には山手方面に専用の遊園地を望む声があり、慶応2年(1866)に外国行使団との間で結ばれた 「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」 (慶応約書)によって、その要求が幕府に認められました。しかし、この中の公園計画は具体化しないで終りました。
明治2年(1869)に居留民代表から改めて要求が出されたのに対して、日本政府は山手妙香寺付近の土地約60坪を、慶応約書で約束した土地の代替地として貸与しました。公園の造成は居留民が行い、明治3年5月6日(1870年6月4日)に開園したのが山手公園です。
明治11年(1878)からは、居留外国人女性で組織される横浜レディズ・ローン・テニス・アンド・クロッケー・クラブ(横浜婦女弄鞠社(ろうきゅうしゃ))が管理することとなり、クラブハウスとコートがここに設けられました。
横浜市教育委員会
山手公園の解説板より転載
横浜山手テニス発祥記念館を少しだけ進んだ場所に山手68番館がある。山手68番館は震災後の昭和9(1934)年に外国人向けの賃貸住宅として造られた。平屋建てで西部劇風のポーチを持つため、我々には別荘風でもある。左右に羽の様に広がる屋根は新しく加えられたもの。
山手68番館のホールは建物の中心部分で右手には手前から食堂、厨房そして和室があった。左には応接室が備えられており前面のポーチへ繋がっていた。現在は山手公園内のテニスコートのクラブハウスとして利用されており左手の応接室であった部屋は現在、クラブの管理事務所がある。
山手公園を出てカトリック山手教会に向かう。普通の静かな一本道の散歩道。
山手本通りに出るところにカトリック山手教会がある。現在の聖堂は前の聖堂が関東大震災で倒壊したのち昭和8年(1933)に再建されたもの。再建される前の教会は2つの塔を持っていたと伝えられているが、現在は1つのみ。塔内に設置されている鐘は昔のものをそのまま利用しているそうだ。
イタリア山庭園に行くために山手本通りを歩いていくと 「イタリア山庭園」 への案内標識がある。