港の見える丘公園と異人館めぐり


港が見える公園 イギリス山



フランス山の井戸のところから繋がっている歩道橋を渡ると展望広場に出る。展望台からは横浜港が広く見渡せる。


展望広場の一角に 「港の見える丘」 の歌碑がある。流行歌 「港が見える丘」 は昭和22年当時、東辰三作詞・作曲で平野愛子によって歌われ大ヒットした曲だが、この場所を歌ったものかは定かではない。その後、この歌が横浜市民に特に親しまれていたこともあって、この場所を 「港が見える丘公園」 と名づけられたという。
歌は3番まであるが、この歌碑には1番のみが刻まれている。

港の見える丘
あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜唯一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛咽び泣けば
チラリホラリと花片
あなたと私に降りかかる
春の午後でした
          東辰三


長さ30m程の半円型の屋根が付いた展望台がある展望広場。場所の取り合いはまず無いと思われる長く広い展望台。


横浜ベイブリッジが遠くに見える。この丘自体が横浜市の発表では海抜38m程と高くないので手前の建物までの距離が近く、もっと高い場所から眺める景色に比べるとガチャガチャした景色に見える。


「コクリコ坂から」 の舞台 横浜
展望台の右手に2011年夏に公開されたスタジオジブリ作品「コクリコ坂から」 の解説板がある。「コクリコ坂から」 は1963年の横浜が舞台になっており、主人公の下宿屋 「コクリコ荘」がある場所は港が見える公園がモデルとされている。


展望広場に続いて沈床花壇へ降りる石段がある。花壇の先には大佛次郎(おさらぎじろう)記念館が一部見える。


沈床花壇とはいうものの、花壇は噴水池の周り位で、後は芝生と休憩用のベンチがある位。という訳で綺麗な花のあるローズガーデンの方に向かう事にした。


ローズガーデンは沈床花壇の隣にあってこじんまりとしてはいるが、バラ好きには有名なスポットで5月6月といった最盛期にはカメラを持ったマニアで賑わう。11月にも多くのバラが咲いていた。手間のかかるバラはこのような場所で楽しむのが正解だと思う。

港の見える公園ローズガーデン


港の見える丘公園のあるこの丘は、開港当時フランス軍とイギリス軍が駐屯し、その後、フランス領事館、イギリス総領事公邸が建築されました。現在、フランス領事館の遺構を残す地区をフランス山地区と呼び、イギリス総領事公邸は、横浜市が買収し、横浜市イギリス館をして市民に利用され、平成2年度には横浜市文化財に指定されました。
平成元年9月に市制100周年、開港130周年を記念し、「市の花」 としてバラが制定されました。
バラはイギリスの国花であり、また、本公園は歴史的背景のあるイギリス館があります。
横浜港やベイブリッジの眺望もすばらしく、多くの人々が訪れることから、この公園が「バラ園」 を整備する最もふさわしい場所として選定され、平成3年5月に開園しました。
その後、山手111番館の整備に伴って平成11年3月に 「ローズガーデン」 として拡張整備しました。
ローズガーデン概要
面積 約8,000㎡
バラ品種 約110種
植栽数量 約1,300株
バラの身頃は例年5月中旬、10月中旬頃です。

横浜とバラ

横浜とバラの関わりは、開港とともに数多くの西洋文化と一緒に上陸したことにはじまります。
明治の初め、山手の外国人住宅の庭に梅、桜、菊、ぼたん等、日本の園芸植物と一緒にかつて見たこともない美しい花が咲き誇っており、これを見た人々は 「いばらぼたん」 とか 「洋ぼたん」 と呼んで、この珍しい渡来植物を羨望のまなざしで見ていました。
その後、外国人との交流が盛んになるにつれて、市民の庭にも植えられるようになりました。
昭和6年、当時親交のあったアメリカのシアトルに高さ4mの桃山式太閤型の石灯籠を送ったところ、その返礼として200種3,000本のバラが届けられました。このバラは 「日米親善のバラ」 として当時の野毛山動物園、山下公園、横浜市児童遊園地に植えられました。
また、昭和10年から 「バラ祭り」 が催され、その行事のひとつに 「バラ行進」 があり、馬車や自動車に市長を始め来賓やミス・ヨコハマが乗ってパレードしました。これが、現在5月に開催する国際仮装行列のもとになりました。これらの行事は戦争のため、中止され、バラもすべて姿を消してしまいました。
昭和24年に 「日本貿易博覧会」 が山下公園等を開場に開催され、当時最新の 「ピース」 を始め数種のバラの切り花がサンフランシスコから空輸され世界の注目を集めました。
平成元年9月市民投票で一番人気のあった 「バラ」 が 「市の花」 に制定され、横浜博覧会(YES'89)の開場で発表されました。
港の見える丘公園ローズガーデンの解説板より転載


ローズガーデンの中に可笑しな形のモニュメントがある。ユーリー・ワシーリエフ 1978年作の 「まどろみ」 という彫刻。女性が寝ている様なのだろうが変な形。


ローズガーデンを出た所にかつての英国総領事公邸であったイギリス館がある。現在は横浜市の所有で見学等も自由で無料公開されている。会議やイベントなどで特定の部屋を使用する場合は有料。ただし比較的安い使用料で貸し出されている。


イギリス館の玄関。玄関の目の前に植栽があって車はUターン出来るようになっているが少し窮屈。

横浜市イギリス館


名称/横浜市イギリス館(旧横浜英国総領事公邸)
所在地/横浜市中区山手町115-3
建築年/昭和12年(1937年)
設計者/大英工部総署
規模/RC造2階建、地下1階

日本の開国はペリーの来航に端を発しましたが、最も中心的な役割を果たしたのは、オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交団です。
このイギリス館の立つ山手115番は、文久3年に横浜の居留地防衛のため軍隊が駐屯するなど横浜開港直後からイギリスにゆかりの深い土地です。
横浜市イギリス館は、昭和12年に上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として建築された建物で、広い敷地にゆったりと建てられ、条約開港都市横浜にふさわしい規模と風格を持っています。
建物は、主屋と付属屋とが連結した形で建てられています。主屋は南面して主要な部屋を配し、廊下を北側に設ける配置で、一つの理想的な形態を示しています。意匠的には、近代主義を基調とした合理性が見られますが、単にモダニズムの踏襲ではなく、英国調とも言える伝統を加味した優れた貴重な建物として、平成2年11月に横浜市指定文化財に指定されました。
横浜市イギリス館の解説板より転載


2階の寝室とその先にはサンルームが付属している。


ホールでは午後の弦楽四重奏のコンサートのリハーサルをしていた。リハーサル中でも見学は自由にできる。ホールの定員は60名との事だったが見積もっている人数が少ないらしくイスの数が少なかった。ステージが壁の向こう側になり死角席が沢山出来そうだ。


イギリス館を出るとすぐ近くに沈床花壇の先に見えた大佛次郎記念館がある。有名な猫好きの作家らしく玄関横には黒猫の像が飾ってある。


入口の様子。入場料は大人200円、小・中学生100円。猫関係のものなども受付で求めることが出来る。私も猫は無条件で可愛いと思うので、故大佛次郎氏と心が通じた気がした。


大佛次郎記念館の一角に喫茶霧笛がある。沈床花壇が屋根も日陰も無いので見ると入りたくなる場所にはある。

霧笛の横に大佛次郎記念館の説明板が立っているので紹介しておきたい。観覧料の追加情報として、横浜在住の65歳以上の方、身体障害手帳、療養手帳をお持ちの方は無料になる。また第2、第4土曜日、毎月23日の横浜市民の読書の日は高校生も無料になる。

大佛次郎記念館


観覧料
大人200円(含高校生)、小・中学生100円 以下無料
20名以上団体扱い大人150円、小・中学生80円(図書閲覧ご希望の方は閲覧室受付けでご相談ください)
観覧時間
4月~9月 午前10時~午後5時30分(入館は午後5時まで)
10月~翌年3月 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日(施設点検日)
(1)毎週月曜日(国民の祝日・振替休日の時は火曜日)
(2)年末年始(12月29日から翌年1月3日まで)
(3)この他不定期に休館日(施設点検日)があります
会議室使用料
会議室(定員20名) 午前(10時~12時30分)2,500円 午後(13時~17時)4,000円
和室(定員20名) 午前5,000円 午後 8,000円
横浜市に生まれ横浜をこよなく愛した作家大佛次郎(おさらぎじろう)(1897年~1973年)の作品には、横浜を舞台にしたものが数多くあります。この山手の地も 「霧笛」 「幻燈」 などの作品の舞台になった所です。没後、膨大な遺品が遺族から横浜市に寄贈されたのを機に、この記念館が建設され昭和53年(1978年)5月に開館いたしました。館内には、貴重な遺品や文筆活動に使われた数々の資料、愛猫家であった氏を偲ばせる猫の置物等が保存・展示されております。また、和室や会議室など貸室や図書閲覧のための閲覧室も設けられております。 お気軽にご利用ください。
大佛次郎記念館の解説板より転載


大佛次郎記念館の隣に日本初のワルツ(明治29年吉田信太作曲)唱歌 「港」 の作曲碑があった。楽譜も付いていたので見てみると、子どもの頃歌ったことのある良く知られた歌だった。


大佛次郎記念館のすぐ横手に氏の横浜を題材にした代表作霧笛の名が付いた霧笛橋が架かっている。霧笛橋を渡った先は神奈川近代文学館。今日は霧笛橋は渡らずに橋の横からガーデンを楽しみながら異人館に向かおうと思う。


霧笛の手前にはスロープ状の歩道があって下に降りていける。霧笛橋は横から眺めるとヨーロッパの水道橋のような形をしている。


丘の斜面を利用したガーデンには5本柱の上に巨大リングが乗っている屋根無しのガーデンルームみたいな構造物がある。リングの側面に張ってあるのはバラのプレートで、ガーデン内にはバラが多いのでそういうことらしい。ガーデン内は階段を使わなくてもスロープの遊歩道もあるので、バギーでも散策できる。


ガーデン内には山手111番館の地階を利用したカフェが開かれている。場所が場所だけに横浜で最高の雰囲気のお茶は如何。


水の階段があって、この水は上の噴水広場の池の水が流れてきているそうだ。

ガーデンを登ってくると噴水広場に出た。この噴水の見事さは特筆すべきもので6角形の台座の4方からはライオンが水を噴いている。一番上の台を支えているアヒルのような顔をした魚の正体が気になる。そして上の台には6匹の小さなライオンの顔も見える。またここにあるものは復刻版で実物は横浜水道記念館に保存されているそうだ。

横浜水道創設記念噴水塔


わが国初の近代水道が横浜に完成したことを記念して、 明治20年横浜停車場(現JR桜木町駅)前広場に設置された噴水塔を再現したものです。 高さは約4メートルで、設置時にイギリスから輸入されました。 台座には、水道創設の功労者であった神奈川県令(現在の知事)の沖守固と、 設計者のイギリス人パーマ-の銘板が見られます。 「近代水道百選」にも選定されており、実物は保土ヶ谷区にある横浜水道記念館中庭に保存され、展示中です。
横浜水道創設記念噴水塔の解説板より転載


山手111番館の玄関側に来た。表側からは2階建てに見えるが裏側は斜面を利用した地階があって、喫茶が開店している。建物内部の見学も自由。

山手111番館(旧ラフィン邸)について


山手111番館は 1926(大正15)年に建てられました。
設計者はJ.H.モーガン、設計図面には、J.E.ラフィン氏の邸宅と記されています。
ここで暮らしたJ.E.ラフィン氏とはどんな人だったのでしょう。

ジョン・エドワード・ラフィン(1890~1971)

J.E.ラフィンこと John Edward Laffin は、アメリカ人T.M.ラフィンと日本人ミヨの長男として、1890(明治23)年に横浜で生まれた。
アメリカの陸軍士官学校に留学後、日本に帰国。最新の知識を全て盛り込み、1920年代に、時代の最先端を行く18フィート艇<シャムロック>を建造した。この艇はラフィンの頭文字をとってLクラスを称された、またたく間に普及した。
港湾の荷役業務の会社を父と経営(肩書きはマネージャー)していて、ロシア系女性マリア・イワノワとの間に3人の子供がいた。2人目の子供が生れた年(1926年)に山手111番館にて暮らし始める。当時36歳であった。
戦争中は父と二男、三男は抑留されたが、長男J.E.ラフィンは抑留された記録はない。戦後帰国するが、妻と子どもたちは1953(昭和28)年に再び渡米する。彼は横浜に残り、艇の構造や横浜ヨットクラブの育成、運営に指導的役割を果たしたことで、1963(昭和38)年に横浜文化賞が贈られた。
1971(昭和46)年にカリフォルニアでなくなり、現地で埋葬される。(没81歳)
山手111番館の解説板より転載


食堂の様子。ラフィン氏が住んでいた頃から持ち主は何度か変わったらしいのだが、もとの作りが良いせいだろうか、リフォーム等はされないまま住まわれていたらしい。暖炉も美しい彫刻の造りのまま残っている。


チラシなども置いてあって色々な案内がある。赤いロウソクが机の上に飾ってあったのはクリスマスが近いせいだろう。


ホールは中心部分が吹き抜けになっている。ピアノの演奏を2階で聞くことも出来たわけだ。2階部分は強度上の問題から普段は見学出来ない。


山手111番館を出て外人墓地に向かうため 「港が見える公園前交差点」 に向かう。


港が見える公園前交差点から信号を渡り左に行けば突き当たりは外人墓地。


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