港の見える丘公園と異人館めぐり


元町公園周辺



外人墓地から貝殻坂をはさんで元町公園になると、元町公園の前に山手聖公会の建物がある。昭和6(1931)年の建築で平成2年に横浜市認定歴史的建造物に指定された。設計者はアメリカ人建築家のJ.H.モーガンで城壁のような外観は大谷石で造られている。


山手聖公会の隣は山手234番館で左右が対象に造られており、もともと共同住宅として造られたものだそうだ。4つの住戸に分けられていたが公開に際して多くの改修が行われた。現在館内は無料で公開されている。


建物の中心に採光用の小さな庭がある。風水的には家の中心に穴を開けるのはどうなのだろう。幸運が逃げていきそうな気がするが。

山手234番館


概要

山手234番館は、関東大震災直後(昭和初期)に建設された外国人用の共同住宅をして、横浜市内に現存する数少ない遺構のっひとつです。隣接する一帯を含めて民間業者によってなされた復興事業の内容や震災後の横浜に居住した外国人の生活の様子を知ることの出来る貴重な建物です。
また、この建物の敷地は、山手本通りを挟んで、元町公園の向かい側にあり、周囲には、横浜山手聖公会の教会堂や元町公園内に移築されたエリスマン邸、隣接する山手89-6番館(えの木てい)など、歴史的な建築物が数多く点在する一帯にあり、このような地域の歴史的な景観の連続性を維持する上で、重要な建築物でもあります。
創建当初の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部の玄関ポーチを挟んで、対照的に向かいまとめられ、往時の「モダン」な生活様式が伺えます。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓やよろい戸、煙突などが、簡素な仕様で採用されており、震災後の洋風住宅意匠の典型といえます。
構造 木造2階建て
規模 建築面積 234.08㎡ 延床面積 436.34㎡
設計者 朝香吉蔵
施工者 宮内建築事務所
建築年代 昭和2(1927)年頃
外壁仕上 アクリルリシン吹き上げ 一部洗い出し仕上げ
屋根 寄棟型・セメント瓦葺き
位置づけ 横浜市認定歴史的建造物

沿革

昭和2(1927)年頃、外国人向け共同住宅(アパートメントハウス)として、民権業者によって建設されました、その後、第2次世界大戦後、一時米軍による接収などを経て、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得しました。
平成9(1997)年からは、建物の保全改修工事を行うとともに、中区パートナーシップ推進モデル事業として、市民の方々と建物の活用方法等について検討を進めてきました。
山手234番館の解説板より転載



山手234番館の内部には細かい装飾はほとんど無く特徴的なアーチが目を引く。


山手234番館のとなりにはカフェ 「えの木てい」 がある。この 「えの木てい本店」 の建物は日本人建築家朝香吉蔵氏の設計で昭和2(1927)年に建てられ、当時はアメリカ人検事が住んでいた。その後現オーナーのご両親が買い取り現在はカフェ付きの焼菓子店として営業している。
この山手89-6番館は歴史的建造物ではあるが個人所有であるため一般公開はしていないが、喫茶としての利用ならば一階の喫茶の他、2階には個室もある。


山手本通りの右手には元町公園があって公衆電話ボックスがポツンと立っている。携帯電話が普及してしまったので、実用上というよりは変わった形なので観光上の設置なのだろう。


電話ボックスの色も赤でも緑でもなくレトロ調に塗られ、上部には昔の電話のようなベル2個とマイクのレプリカが設置してある。


元町公園の一角にスイス人貿易商エリスマンの私邸であったエリスマン邸がある。設計は日本現代建築の父と呼ばれるA.レーモンドで大正15年(1926)の完成。


エリスマン邸は最初山手127番に建てられた後、昭和57年(1982)の低層高級集合住宅 「クレスト山手」 建設に際して解体されることになり、部材が横浜市に寄付され平成元年(1989)に横浜市は元町公園内の今の場所に移築復元した。現在館内は無料で公開されている。


当時の洋館では人気があったというサンルーム。移築されたこの場所では上部に樹木が茂りサンルームの雰囲気はなくなった。


1階の居間兼食堂はサンルームにつながっている。あまり仰々しくなく、現代の住宅にもつながる様なスッキリした作りで古さがない。氷川商事が保有していたエリスマン邸を解体保存した後、移築復元されたという事実が、部屋の中に居ると高度な技術に感嘆するとともに不思議な気がする。


非常に多くの引き出しを持つ楽譜入れに私は興味を持った。ヨーロッパの楽譜はピアノ曲や歌曲では一曲ずつのピースになっているものが多く、本棚に立てて保存しにくいので、専用の深くない引き出しは楽譜屋さんの様。


エリスマン邸を出てから小さな道を挟んでベーリック・ホールがある。現在は元町公園の一角である広い庭園を持つ敷地に洋館としては山手で最大級の規模のベーリック・ホールはある。この住宅はフィンランド名誉領事を務めた貿易商B.R.ベーリックの邸宅として昭和5(1930)年にJ.H.モーガンの設計で造られた。


ホールと名付けられてはいるがベーリックの邸宅として造られている。1階の窓がアーチ型に造られ2階の四葉型の装飾小窓など細部まで非常に凝っている。平成13(2001)年、横浜市認定歴史的建造物に指定された。


ベーリック・ホールの居間の天井の梁は格子状になっているのが特徴的。壁にも化粧用の柱が埋め込まれて天井との統一感を出すと共に豪華絢爛な山小屋といった雰囲気も出している。スペインの建物の影響も受けているらしい。

ベーリック・ホール(旧ベリック邸)


ごあいさつ

ベーリック・ホール(旧ベリック邸)は、イギリス人貿易商B.R.ベリックの邸宅として、1930(昭和5)年アメリカ人建築家J.H.モーガンの設計により建造されました。現存する山手外国人住宅の中でも、最も規模が大きく、建築的にも内容が充実した横浜山手を代表する歴史的建造物です。
第2次世界大戦前まで住宅として使用された後、1956(昭和31)年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付され、セント・ジョゼフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていました。
2001(平成13)年、建物が所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物については宗教法人カトリック・マリア会から寄付を受け、復元・改修等の工事を経て、2002(平成14)年7月から市民のための施設として新たに活用されることになりました。
ベリック氏とその家族が暮らしていた当時の雰囲気を味わい、この建物との新たな思い出を作っていただけたら幸いです。
平成14年7月 横浜市

ベーリック・ホール(旧ベリック邸)について

ベーリック・ホール(旧ベリック邸)は、旧山手居留地の中心部、エリスマン邸のすぐ隣に建つ、明るいベージュ色の外壁をした大きな西洋館です。横浜山手に今も残る戦前の外国人住宅のなかで、最も規模が大きく、高い質を持ち、山手を代表する歴史的建造物のひとつです。
1930(昭和5)年、イギリス人貿易商B.R.ベリックの邸宅として、アメリカ人建築家J.H.モーガンによって設計されました。木造2階建て、地階部分は鉄筋コンクリートで、全体はスパニッシュ・スタイルを基調にしてデザインされています。
東西に長い敷地にあわせて建物も東西に長い形をしており、前面の南側には、庭園が広がっています。庭に面したアーチ型の大きな開口、3連アーチの玄関ポーチ、壁泉、四葉型(クワットレ・フォイル)をした2階の小窓、軒下を飾る帯状の幾何学模様タイル、化粧垂木で支えられた軒など、この建物にはデザイン上、数多くのみどころがあります。
平成14年
横浜市建造物調査委員
横浜市歴史的景観保全委員
関東学院大学工学部教授 関和明

建物の概要

建築年代 1930(昭和5)年
所在地 横浜市中区山手町72
設計者 J.H.モーガン
施工者 不詳
構造 木造2階建、地下1階(鉄筋コンクリート造)
延床面積 653.933㎡(197.8坪)
敷地面積 約2,055.92㎡(621.92坪)
外壁仕上 モルタル壁仕上げ洗い出し、一部タイル張り(軒下)
ベーリック・ホールの解説板より転載


こちらは2階にあるサンポーチ側から眺めたベーリック婦人の寝室。




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