港の見える丘公園と異人館めぐり


港が見える丘公園 フランス山



みなとみらい線の元町中華街駅の入口が見える。Mマークはパリでは地下鉄を示すメトロの略だが、ここでは「みなとみらい」 のMの略。みなとみらい線も地下を走っているのでフランス人も迷わないかも知れない。


港の見える丘公園の入口に着いた。目の前の歩道橋は山下公園から人形の家を通って港の見える丘公園まで通じるフランス橋
港の見える丘公園はフランス山地区とイギリス山地区に分かれており、フランス山地区は建物が遺構しか残っておらず緑が深い。

フランス領事館時代


建物震災前のフランス領事館
1894(明治27)年、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、1896(明治29)年3月に完成しました。煉瓦造2階建て、建坪およそ36m×18mの規模でしたが、官邸とともに関東大震災で倒壊しました。跡地からはジェラール瓦、煉瓦などが出土しています。フランス橋の橋台壁面には、’RF’(フランス共和国 Republique francaise の略)と彫られたメダイヨン(円形飾り)が保存展示されています。領事館正面外壁に嵌め込まれていたもののうちの1つです。また、展示してある遺構は工事の際、出土したものです。
横浜都市発展記念館 協力
平成17年 横浜市 緑政局
港の見える丘公園の解説板より転載



港の見える丘公園の入口からすぐに横浜ボウリング発祥の碑がある。見ただけで何のことか判る判りやすい碑だ。碑には以下の文が刻んである。
1864(元治元年)横浜外国人居留地内に長崎に次ぎボウリングサロンを開場した記録がある
協会発足30周年を記念しここに横浜ボウリング発祥の碑を建立する。
平成7年10月26日
神奈川県ボウリング場協会
神奈川県ボウリング連盟
神奈川県ボウラーズ連盟
全国実業団ボウリング連盟
神奈川県連合会

パビリオン・バルタール


この純鋳鉄製骨組は、1860年代フランスのパリに建てられ1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部です。設計者の名をとってパビリオン・バルタールと称されました。この中央広場は再開発のためすべて取り壊されました。その際、横浜市が19世紀末の純鋳鉄製構造物としての貴重な学術的・文化的遺産であるためパリ市にその一部の移設を申し入れ、パリ市当局の好意により寄贈を受け、かつてフランス領事館のあったこの地に復元設置しました。
1980 横浜市

沿革
パリの中央市場は、12世紀以来パリ中央部のレ・アール(LES HALLES)地区に存在していました。19世紀後半ナポレオン3世時代にオスマン市長が建築家バルタールに設計を依頼し新たな姿にしたものがこの建造物です。全体は、12棟で構成され1854年~1858年に6棟が建てられ1860年~1866年に3棟、1886年に1棟、そして最後の2棟は1935年に完成しました。市場は、主要部分を占める地上階と倉庫である地下階部分とから成っていました。地上階の鉄骨上屋は、パリ郊外に復元されており当公園に設置されたこの構造体は地階部分のものとして、上部構造を支え柱、アーチ・梁等すべて鋳鉄製で構成されている珍しいものです。建設時期は、エッフェル塔より前であり初期の鉄骨様式を知る上で貴重なものであります。
パビリオン・バルタールの解説板より転載
この純鋳鉄製骨組の出所であるパリの中央市場は完成まで何と80年以上かかっている。スペインのサグラダ・ファミリアは今だ工事中だしヨーロッパ人は気が長い。


フランス山の記憶と書かれた案内板にはフランス山地域の遺構と見所が一覧で載っている。


上への2つの階段はカーブを描いて上の踊り場で合流する。距離も殆ど同じなのでどちらを登っても良い。


左右の階段は円形の踊り場で合体する。樹木が多すぎて踊り場からの眺望はゼロ。登るしかない。


階段を登りきるとフランス領事官邸跡に立つ風車が見えてくる。この風車は当時水道が完備していなかったため、井戸から水をくみ上げるために使用されていた様子を再現したもの。

フランス領事館時代


震災前のフランス領事官邸
1894(明治27)年、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、1896(明治29)年12月に完成しました。設計図によると、煉瓦造2階建て、建坪およそ24m×18mの規模でしたが、関東大震災で倒壊しました。跡地からは建物に使用されたと思われるジェラール瓦、煉瓦などのほか、同時に建設された用水用水車の基礎が掘り出されました。官邸建設当時はまだ山手に上水道が敷設いなかったため、井戸を掘り風車で水を汲み揚げていました。
港の見える丘公園の解説板より転載

仏軍駐屯時代のフランス山


フランス軍のキャンプ場は山手186番にあり、3,042坪の敷地に、3棟の建物が日本側の費用で造営されました。1棟は建坪90坪、もう1棟は建坪15坪、煮炊所が12.5坪で、ほかに当初からの土蔵1棟1.555坪がありました。初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名にはじまり、その後、208名陸、海軍追加部隊などが加わり、併せて300名以上が横浜に駐屯しました。
港の見える丘公園の解説板より転載

フランス山の歴史年表


文久 2年(1862) 生麦事件おこる
文久 3年(1863) フランス海兵隊横浜に到着、山手186番に駐屯
明治 8年(1875) フランス軍撤退
明治18年(1885) フランス人居留民の有志、領事館建設の嘆願書提出
明治27年(1894) 領事館・領事官邸新築工事着手
明治29年(1896) 3月領事館完成 12月領事館完成
大正12年(1923) 関東大震災により領事館・領事官邸倒壊
昭和 5年(1930) 領事完成再建
昭和22年(1947) 領事官邸、不審火で焼失
昭和46年(1971) 横浜市、フランス政府から山手185・186番の土地を購入
昭和47年(1972) 港の見える丘公園フランス山地区として整備、開園
港の見える丘公園の解説板より転載

フランス山の歴史


1862年9月(文久2年8月)に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだため、フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、イギリスとともに軍隊の駐屯を決定しました。
1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設されました。1875(明治8)年3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けました。これがフランス山と呼ばれるようになったゆらいです。
撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日代表部に譲渡hしました。横浜在住のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしましたが、なかなか実現しないでいたところ、1885(明治18)年になってフランス人居留民の有志らが領事館建設の嘆願書を提出しました。このことがきっかけとなって計画が具体化し、1894(明治27)年3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成します。領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られました。
1923年(大正12)、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊します。震災後、領事館は仮説の建物を使用していましたが、官邸は、1930(明治5)年、スイス人建築家ヒンデルの設計で186番に再建されました。その官邸も、戦後まもない1947(昭和22)年には火災で焼失してしまいます。現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。
港の見える丘公園の解説板より転載

震災後のフランス領事官邸(1)


1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって領事官邸は倒壊したため、マックス・ヒンデルの設計で1930(昭和5)年に新しい領事官邸が建てられました。1階部分はコンクリート造、2・3階部分は木造の3階建ての建物でした。一部に4階建てに相当する塔屋があり、また大きい屋根窓が設けられていることから、4階に相当する屋根裏部屋があったものと推測されます。天井高は3m、建築面積は222.5㎡、建設費用は53万3,000フランと伝えられています。

マックス・ヒンデル(Max Hinder 1887~1963)
1887年生れのスイス人建築家で、1924(大正13)年に来日。札幌で建築活動を開始し、1927(昭和2)年に横浜に移転、中区本牧満坂に事務所兼住宅を設け、1935(昭和10)年に事務所を閉鎖するまで横浜で活動しました。その後ドイツに渡り、1963年に死去しています。
港の見える丘公園の解説板より転載

震災後のフランス領事官邸(2)


今回、公園の整備を行うにあたり、震災後に建てられたフランス領事官邸1階部分の建築遺構の調査を行いました。
1階部分は、145m×14mの正方形に「近い短形をしており、東隅に設けられた主玄関は、幅5.5m、奥行2mのポーチとその奥の5.5m×5mのホールからなります。ポーチは擬石積みで仕上げられており、ホールには壁と床のタイル張りが残されています。
西側には、同じく擬石積の仕上げが施された脇玄関と思われる開口部があり、そのかたわらに便所および2階に通じる階段があります。その他の部屋は、使用人の部屋や厨房等と思われます。
港の見える丘公園の解説板より転載


この風車は同時代の他の風車の写真から想像で再現されたもの。現在の風力発電用の主流である3枚羽ではなく、こいのぼりの一番上に付ける風車(かざぐるま)に似ている。

フランス山の風車


1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山には井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。
残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車であったろうと思われます。なおフランス山の風車は、フランスに残されている資料から、1909(明治42)年頃までは存在していたようです。
今回、フランス山の公園整備に際し、かつてのフランス山をしのぶモニュメントとして、多翼型の風車を設置しました。風車の色は、フランス国旗の色にちなんでトリコロール(青・白・赤)に塗りわけられています。また、風車が回ると水を汲み揚げるようになっています。
今回の公園整備に伴う工事の際に、風車のレンガ造り基礎が見つかりました。井戸の北側斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基の合計4基です。北側の基礎は、斜面の整備に支障をきたすため、堀り上げて新たに設置した風車を中心に、元の位置に合わせて展示しました。また南側の1基はそのままで、もう1基は園路の下に現状保存しています。
港の見える丘公園の解説板より転載


関東大震災により倒壊したフランス領事官邸は昭和5年に再建されたが、その時代に設けられた官邸の門がそのまま残っている。今も公園への出入口として利用中。


フランス領事官邸の遺構を過ぎるとすぐに愛の母子像がある。
昭和52年に起きた米軍機の墜落で母子3人が犠牲になった事故を受けてこの公園に設置されたという。実は私は田園都市線の青葉台駅の出口にいてジェット機の轟音で空を見上げると、ちょうどパラシュートが開いてパイロットが脱出した後、降りてくる現場に遭遇したので良く覚えている。パイロットは駅から200m程の小山に降り立ったが、捨てられた米軍機は駅で3つ先の荏田の住宅街に落下した。
子供2人は即死だったが、お母さんだけはしばらく意識があったので、よけいにつらかった。


フランス山に上水道が敷設されていなかったため使われていた井戸が残されている。深さは30mで水を汲み上げるのに風車を利用していた。
整備前の井戸の写真がプレートとして張ってあった。

レンガ造り井戸遺構


このレンガ造り井戸は、明治29年(1896年)のフランス領事公邸竣工時に、上水道が山手まで敷設されていなかったために設置されたものです。水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mで、使われているレンガは、円形に積むために扇型をしています。
また公園整備の工事に際し、井戸の周囲から井戸水汲み揚げ用風車の基礎4基も出土しました。右側に現状保存したのは、そのうちの一つです。
今回、かつてのフランス山をしのぶ貴重な遺構として保存整備を行いましたl。
平成16年2月 緑政局
港の見える丘公園の解説板より転載



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