大さん橋から山下公園・中華街を回るコース


横浜中華街



山下公園の東端は水が流れ落ちる階段になっていて階段を登っていくと 「せかいの広場」 がある。埋立地である山下公園に高台があるはずも無いが、実は秘密がある。


反対側から見るとビル状になっていて、広場の下は駐車場になっており、またその下は 「山下ポンプ場」 になっている。「山下ポンプ場」 は関内地区、山下地区などの浸水防止のための雨水排水ポンプ場で1987年に完成し、毎秒11.7㎡の排水能力を持っている。


世界の広場は円形で丸い地球の世界を表現しているのだろう。ただし、夏は暑いし冬は寒いし、あまり人気は無いようで、「人形の家」 や 「港が見える丘公園」 への通過点となっている。


花壇のアーチを抜けて行くと 「横浜人形の家」 の前に出る。。


「横浜人形の家」 の入口は2階部分にあって、玄関前には昭和2年に日米友好を願って贈られた13,000体の人形をモチーフにした 「青い目の人形」 のブロンズ像や館内にあるスイス人形をモチーフにした楽器を演奏している3体のブロンズ像が並んでいる。これらの像は玄関前の通路に設置してあるため自由に鑑賞出来る。


フランス橋はこのまま 「港が見える丘公園」 の入口に繋がっている。
このまま 「港が見える丘公園」 にいく場合はこちらから続けて散歩できます。


さて、今日は中華街を通って関内駅まで帰る予定なので、「横浜人形の家」 方面には行かず、横浜中華街に向かうことにする。


信号を渡ってマリンタワー左の道を中華街に向かう。


中央分離帯に柵があって信号も無いのでここは渡れない。右方向に行くと150m程で横浜天主堂跡の交差点があり横断歩道もあるのでそちらまで歩く。


横浜天主堂跡交差点で道を渡ってそのまま進む。


道は細いがこれが中華街へは一番近い。道の先、左手に中華エンタテインメント施設 「横浜大世界」 の看板と屋根が見える。(丸い駐車禁止標識のすぐ横と右上) このまま進めば中華街の関帝廟通りの前に出る。


関帝廟通りの東側入口に架かる天長門。表側の額は 「関帝廟通」 と書かれているが内側には 「天長門」 と掲げられている。


天長門のすぐ左手に横浜の開港150周年を記念して2006年に建てられた 「横浜媽祖廟(よこはままそびょう) 」 がある。新しい名所であるため地理的に不利なこともあって関帝廟に比べると参拝者は少ない。


この立派な廟を平日は独り占め。媽祖は女神であることから、嫉妬深いはずで独り占めをすれば、さぞかし御利益がありそうだ。拝観はもちろん無料。お線香は有料。


関帝廟通りを入ってすぐに山下町公園がある。横浜媽祖廟の裏側と接しているが、ここには東屋風の休憩所(会芳亭)があり中華街での貴重な無料休憩所。ただし競争率は高い。真っ白の2匹の狛犬も見所。


しばらく進んでいくと有名な 「関帝廟」 がある。商売の神とされる関羽を祀った廟で中華街といえば関帝廟という位定着している。現在の関帝廟は3度の焼失を乗り越えて1990年に再建された4代目で可能な限り本国から取り寄せた部材で構築されたという。


今日は中華街もざっと通るだけなので善隣門まで来た。善隣門の前は5差路になっていて、JR石川町からの入口でもあり中華街でも一番込み合うスポット。門も善隣門が中華街の10の門の中でも一番豪華絢爛。


善隣門前の5差路から四五六菜館別館と加賀町警察の間を抜けて行くと横浜公園に出る。


横浜中華街への北の入口玄武門を出ると目の前は横浜公園。玄武門の右手に横断歩道があり横浜公園側に渡る。


横浜公園の東側入口。小さな入口から入ると、そこは日本庭園になっている。


樹木が茂っているので日本庭園としては非常に暗く、夏は涼しそうだが冬は寒い。落ち着ける場所は特に無く、区役所方面からJR関内駅への近道として利用されている。


横浜スタジアムの横をすり抜けていけば関内駅南口交差点。


すぐそこはJR関内駅だが、ちょっと寄り道して右手の横浜市役所前で見つかったばかりの遺構を見て行くことにする。

二代目横浜支庁舎基礎遺構


この遺構は平成25年(2013)年12月、市庁舎緑化工事に伴って発見された二代目市庁舎の基礎の一部です。
二代目横浜市庁舎は、本町1丁目にあった初代市庁舎が手狭になったことを受けて、明治44(1911)年6月25日に竣工しました。外観は、煉瓦造のルネサンス様式で、全体を白い自然石(白丁場石)の帯でまいている華麗な建物でしたが、大正12(1923)年の関東大震災で被災し、焼失しました。
市制施行後の最初に造られた本格的な庁舎であり、横浜市制黎明期の公共建築のひとつとして貴重な遺構といえます。また、関東大震災の被災状況を伝える震災遺構としても貴重であると言えます。
二代目横浜支庁舎基礎遺構の解説板より転載


駐車場の後ろにコンクリートの枠で守られた遺構があった。建物は年月が経てば次々と建て替えられていくので、全てを残すことは不可能だがたとえ一部でも遺構として残すことは、後世への歴史上の遺産として重要なことだと思う。


JR関内駅南口の前には港町魚市場跡の石碑が立っている。その横には市場を偲ぶとする関係者の解説の碑もあった。

港町魚市場を偲ぶ


明治4年神奈川県令陸奥宗光は高島嘉右衛門に市場開設を許可す。
明治7年高島嘉右衛門は更に船便良き港町に市場を移す。
明治42年高島嘉右衛門の代横浜港町魚問屋組合長太田徳次郎は横浜食品市場株式会社を設立し市場一切を買収し水産物青果物問屋に店舗を貸し日増しに繁盛せり。
然るに昭和6年横浜市中央卸売り市場開場に伴ひ業者全部新市場に入場し土地1270坪横浜市に譲渡せり。
本年は10月50周年を目出度く迎えらる。当時の横浜食品市場会社社長太田徳次郎、専務岡田岩蔵、常務畠山国太郎、取締役落合三次郎、新井万次郎、石黒久次郎、吉橋竜太郎、いづ兼料亭千登世、八百政、吉兼、あらゐ屋、一の称田等其の後続き居る業者半数に及ぶ魚河岸関係者80余名にて青果業有力者八百友、八百信、八百清、八百吉商店、50周年を迎えて記念として碑を建立す。

浜っ子の河岸を偲ぶや港町
建立者 鈴木 吉蔵
     岡田 岩蔵
昭和56年10月吉日
港町魚市場跡の解説板より転載


そしてJR関内駅に到着。横浜中華街は今日は簡単に駆け抜けてしまったが、後日中華街を中心に詳しく10の門や路地なども回ってみたい。




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