大さん橋から山下公園・中華街を回るコース


山下公園



開港広場交差点からは150m程で山下公園の入口に着く。


山下公園の前には神奈川県民ホールが見える。長らく横浜の音楽の中心として活用されてきたが、みなとみらい大ホールが出来てからは主役の座を奪われた感がある。まあ響きにはかなり差があるので仕方は無いだろう。


山下公園の一番西よりの入口から公園に入るとレストハウスの前にインド水塔がある。水塔とはインドの水のみ場の事で横浜市の歴史的構造物に認定されている。歴史的構造物なので保存の為か水は出ていない。昭和14年(1939)の建立なので随分時は立っているが、今も美しい姿は変わらず古さを感じさせない。

インド水塔


関東大震災の際に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済処置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものです。
華麗なモザイク模様のドームのイスラーム建築をはじめ、その意匠は様々な要素がたくさん組み合わされています。
インド水塔の解説板より転載



山下公園の護岸からは何も視界を邪魔するものが無いため、海が圧倒的に広い。山下ふ頭と大黒ふ頭を結ぶ横浜ベイブリッジもすぐそこに見える。


大さん橋の付け根にある 「大さん橋ふ頭ビル」 が水兵帽風の形のせいだろうか、やたら大きく見える。


山下公園は海岸線に沿って700mを超える直線状の護岸が続いている。


東に少し進んだあたりに 「赤い靴の像」 がある。野口雨情の作詞した有名な童謡 「赤い靴」 をイメージして作られた山下公園でもっとも親しまれている像。
野口雨情作詞、本居長世作曲の童謡 「赤い靴」 が発表されたのは大正10年(1921)だが、この像が作られたのは1979年。台座に 「赤い靴 はいてた 女の子」 横浜市長 細郷道一 とある。

赤い靴 作詞 野口雨情 作曲 本居長世


赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれられて
いっちゃった

横浜の はとばから
船に乗って
異人さんに つれられて
いっちゃった

今では 青い目に
なっちゃって
異人さんの お国に
いるんだろう

赤い靴 見るたび
かんがえる
異人さんに 逢うたび
かんがえる

この曲は横浜港を舞台に作られ1921年(大正10年)に発表された童謡です。女の子の像はこれを記念し、多くの人に親しまれる彫刻となることを願って、ここに置かれています。
赤い靴の解説板より転載


赤い靴の像の陸地側に西洋理髪発祥の地を記念した 「ザンギリ像」 がある。中々の残念感漂う作品だが、まあ木立の中にあって日の目を浴びにくい場所なので人々の注目度もおのずと低い。

西洋理髪発祥の地 横浜市長 細郷道一


―ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする―
安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか、政府の 「断髪令」 にk先がけ、明治2年(1869年)横浜に我が国初の 「西洋理髪店」 が開業され、欧米風 「ザンギリ頭」 は文明開化の一翼を担うこととなった。
平成元年11月
彫刻名 「ザンギリ」
彫刻制作 木村賢太郎
寄贈 神奈川県理容環境衛生同業組合
    全国理容環境同業組合連合会
静養理髪発祥の地の解説板より転載
氷川丸の近くには山下公園内の見所が固まっている。

かもめの水兵さん


かもめの水兵さん
神奈川県知事 長洲一二
武内俊子 作詞
河村光陽 作曲
一、
かもめの すいへいさん
ならんだ すいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波にちゃっぷ ちゃっぷ うかんでる
二、
かもめの すいへいさん
かけあし すいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波をちゃっぷ ちゃっぷ こえていく
碑を建てることば
作詞じゃ武内俊子さんは昭和八年の秋ある日このメリケン波止場から船で布教のためハワイへ旅立たれたる叔父さんを見送りにこられました それはよく晴れた日の午後のことで桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわりそれが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした この同様はこのときの光景を描いたもので横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります

昭和54年11月 野間省一
かもめの水兵さんの歌碑の解説板より転載


かもめの水兵さんの歌碑のすぐ隣に 「水の守護神」 の噴水がある。
プレートにはサンデイェゴ市民より横浜市民に寄贈 1960年5月
とある。噴水の水は像の高さまで上がったり下がったりしている。守護神が抱えているのは子供ではなく水の入った壷。

横浜サンディエゴ姉妹都市提携25周年記念碑


横浜サンディエゴ姉妹都市提携25周年記念碑
横浜市長 細郷道一書
横浜とサンディエゴ
アメリカ合衆国カリフォルニア州の南の端にあるサンディエゴ市と横浜市は、昭和32年10月29日に姉妹都市として友好の契りと結びました。
その後、横浜からは 「友好の鐘」 と 「茶室」 が贈られ、サンディエゴからは 「ミッションベル」 と 「水の守護神」 の像が寄贈されたほか、学生交換や児童画展の開催など多くの交流が幅広い市民の参加によって続けられております。
このたび、両市の姉妹都市提携25周年を迎えるにあたり、友好親善の発展に寄与された市民の皆さまに対し、深い感謝の念をこめるとともに、今後ますます両市間の友好関係が増進しますよう祈念し、ここに 「美しのサンディエゴ」 の歌を刻みます。また英訳した歌碑をサンディエゴへ贈ります。
昭和57年10月29日
横浜サンディエゴ姉妹都市提携25周年記念歌碑をつくる会一同
美つくしのサンディエゴ
(横浜サンディエゴ友好委員会の歌)
佐伯孝夫 作詞
吉田 正 作曲
渡辺はま子 歌

一、
おゝサンディエゴ サンディエゴ 美し港
水青く 花赤く 何か倖せ 知らせるように
鳴るよ 鐘の音 空高く 空高く
おゝサンディエゴ サンディエゴ 美し港
おゝサンディエゴ サンディエゴ 愛の町
横浜サンディエゴ姉妹都市提携25周年記念碑の解説板より転載


氷川丸のすぐ後方に 「日米友好ガールスカウトの像」 がある。
台座の文字が消えかかってちょっと読みにくいが
「この銅像は日米友好のしるしとしてアメリカガールスカウト50周年とガールスカウト日本連盟の世界連盟加盟を記念して建てられたものである
昭和37年3月18日」 と記してある。
反対側の英語の方は文字がはっきりしていて読みやすい。内容は日本語と同一。
山下公園にはアメリカとの友好を記念したものが多いのは、やはり横浜は太平洋に面しているのだなと思わされた。


「日米友好ガールスカウトの像」 のすぐ横に沈床花壇がある。バラは横浜だと5、6月あたりが満開のイメージだが11月にもバラが咲いていた。当日も庭師の方々が整備されていたが手がかかりそうだ。


沈床花壇は一段低い場所に歌壇が作られている。もともとこの場所は船溜まりだったそうなので、一段低く埋め立てて花壇を造ったもの。それよりも場所的に台風や嵐の際には海水が流れ込みそうに思うが、対策は当然出来ているのだろう。

沈床花壇 sunken garden


この花壇がある場所は、山下公園が開園する以前は、フランス波止場あるいが東ふ波止場を呼ばれる船着き場があったところです。幕末の横浜港には、このフランス(東)波止場と、現在の大さん橋ふ頭のあたりにイギリス(西)波止場があり、多くの船が行き交っていました。
また、明治期には、日本最初のボートハウスがこの付近に開設され、外国人がボートレースや水泳大会を盛んに行い、海洋スポーツの拠点にもなっていました。
1930年(昭和5年)の山下公園開園当初は、臨海公園を特徴づける施設として、ボートペイシン(船溜まり)が建設されていました。その後の1955年(昭和30年)ごろ、ボートペイシンは埋め立てられ、現在のような花壇になりましたが、海水取り入れ口は今も残り、開業当初の面影を見ることができます。
沈床花壇の解説板より転載


赤いバラは特に美しいと思う。根元にあるプレートによるとこのバラの種類は 「宴」 という種類だそうだ。

山下公園の海岸通り側にフィリピン独立運動の立役者リカルテ将軍の記念碑がある。我が国に亡命して横浜山下町に居住していたという。

リカルテ将軍記念碑


アルテミオ・リカルテは1866年10月20日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。1896年祖国独立のため挙兵、1915年 「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」 と日本に亡命、横浜市山下町149に寓居す。1943年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、80才の高令と病気のため1945年7月31日北部ルソンの山中に於いて波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。玆に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。
昭和46年10月20日 財団法人フィリピン協会 会長 岸信介
リカルテ将軍記念碑の解説板より転載


横浜のシンボル、マリンタワーが木立の間から見える。いまでは高さでランドマークタワーに遠く及ばないが、塔の高さ106mとはいえ展望台が塔の先端近くにあるため、東京タワーの第一展望台(地上125m)よりは低いが海を広く見渡せて景色も良いため根強い人気がある。


世界の広場から流れ落ちる水の階段の下の池の前にお祭り広場のステージがある。




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