地図の部分を拡大してみると北条実時公御廟や八角堂、百観音など色々見所があるのがわかる。
史跡称名寺境内の整備について
横浜市教育委員会では、史跡称名寺境内の管理団体の立場で、昭和五十三年度から昭和六十二年度までの十年に渡り、文化庁の国庫補助を受けて、史跡の中心に位置する庭園苑池の保存整備事業を実施してきました。
整備の方針は、発掘調査の成果と重文 「称名寺絵図」 に基づき、鎌倉時代の苑池造営当初の姿に復原するというものです。
この十年間で実施した内容は、発掘調査で出土した護岸は粘土で保護しながら新しい石を張り、現況では発掘できなかった護岸部分は丸太杭で仮整備するとともに、重文 「称名寺絵図」 に基づき、平橋・反橋の復原及び植栽・石組等の修景を施しました。
昭和六十二年十月
横浜市教育委員会
称名寺の案内板より
称名寺のシンボル反橋とその先に平橋がわずかに見える。このまま境内を走り回ったら叱られるだろう。滑って登り辛い橋もあるが、称名寺の反橋は上り下りが楽なように階段状になっている。
称名寺庭園
称名寺の庭園は、言行三年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記(けっかいき)」 によって、伽藍(がらん)の配置と共に完成時の姿を知ることができます。
庭園は、金沢貞顕(さだあき)の時代の文保三年(1391)から、翌年の元応二年にかけて造られました。
作庭には性一法師(しょういつほうし)が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園(じょうどていえん)の完成が見られました。
苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。
このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅(まんだら)の構図に基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。
平成5年3月
横浜市教育委員会
史跡称名寺境内愛護会
称名寺の案内板より
案内板の 重文 紙本淡彩 「称名寺絵図並結界記」 の部分を拡大する。
この図をもとに発掘調査の結果をあわせて称名寺の庭は復元されたという。いつ訪れても素晴らしい庭園だ。春の桜も秋の紅葉も美しい。
橋の先に見えるのは称名寺の本堂である金堂。右手後方は釈迦堂。見にくいが釈迦堂は藁葺き屋根である。反橋の先に見える青い屋根は 「称名の晩鐘」 で知られる有名な鐘楼。この鐘の音も老朽化のため今年からは聞けなくなる。
桜の季節には称名寺の境内はひときわ美しくなる。桜の数は少ないが庭園の美しさは比較するものもない程なので、横の広場には敷物を広げて昼食をとる花見客の家族連れが多い。
700余年が経過した重要文化財の 「称名の晩鐘」。時代に耐えたりりしい姿には心打たれる。