称名寺へ
蒼穹の下 魚鱗耀きし海
(あおぞらのした ぎょりんかがやきし)
横浜市長 細郷道一書
この一帯のかつての豊かな海を歌ったものだろう。埋め立て造成についての歴史は隣の石に記してある。
由来
伝承によれば 柴町は鎌倉時代この地の東方に長浜千軒と誇稱された村落が在って 応長元年に津波で民家の多くが流出し その難を逃れた漁民が良い越場として転住し ここを小柴村を字して漁業を続けてきたとのことである。
遠くに房総の山々を望み 緑濃い丘陵地を背に砂浜続く波静かな海に 資源豊かな漁場を持った私共柴漁業協同組合の組合員は 祖先より受け継いだ文化と土地と漁場を誇りをもって守り育ててきた
昭和四十六年一月二十九日苦悩の末 横浜市発展のため大乗的見地から 蒼穹の下 魚鱗耀きし海 が 金沢地先埋立事業のよって新しい大地に生まれかわることに合意した
かつてこの地先では地引網漁や打瀬網漁 潜水器漁 海苔養殖等々が盛んに行われた
金沢八景の一つ 乙舳の帰帆 は夕日に映えて波間に浮ぶ柴の打瀬船の帆を詠んだものといわれ 四季折々に多くの魚や貝が獲れ のりひびは秋から冬の風物詩となり 春は潮干狩り 夏は海水浴と 大勢の人々が遊んだ海も今は大地となって町名も柴 福浦 幸浦 並木となる
赤柴漁民の共同組織体として明治三十五年十一月に創立した柴漁業組合は 昭和十一年十二月法律改正により柴漁業協同組合となり 更に昭和十九年五月柴漁業会に 次いで昭和二十四年十月再び柴漁業協同組合となって 今日の柴漁業発展の基盤となった漁港をはじめ多くの諸施設を整備し 県下有数の総合單協として漁民の社会的経済的地位の向上に努めてきたが 昭和五十六年十月十五日横浜市漁業問題対策審議会の答申に副って永年の誇りある歴史に幕を下ろし発展的解散をした
今ここに多くの先人の労苦に感謝の意を捧げると供に この大地の下に眠るかつての豊かな海と 賑わった柴漁港の往時を偲ぶよすがとし柴漁業協同組合の名を永く後世に伝えることを希ってこの碑を建てる 昭和六十三年十月吉日
柴漁業協同組合建之
元参事 天田茂 撰文
柴漁業協同組合の記念碑より
自然との決別は辛いものもあるが、埋立地なので坂が無く走れるわけで、自転車に乗っていると海沿いと川沿いの整備された道を走るときは複雑なものがある。
記念碑の周りも綺麗に整備されている。まさか今は無き柴町を偲んでのお供え物ではないだろう。飲んだら規定の場所に捨てるか持ち帰ろう。
そして前方の記念碑の手前の道を左に折れて最後の目的地称名寺を目指すことにする。隣をママチャリのおじさんが通り過ぎていった。