巌流島の決闘


巌流島は何と言っても宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地。
周囲は波の侵食を防ぐため護岸整備されて海のふちには立ち入ることは出来ない。下関市によって公園として整備されたのが2003年と比較的新しい。

巌流島

正式名称は、船島です。(下関市大字彦島字船)
島の面積は埋立て部分を含めると十万三千平方メートルの広さです。慶長十七年(一六一二年)4月一三日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりにも有名です。「二天記」 によると、巳の刻過(午前十時)武蔵が到着、待ちくたびれた小次郎との間で決闘が始まりました。武蔵の木刀は降り下され、頭上を打ちました。小次郎もまた太刀を払いましたが、武蔵の木刀は小次郎の脇腹に振り下され、勝敗は決しました。勝った武蔵も相当慌てていたらしく、とどめをさすのも忘れ、船に飛び乗ったということです。負けた小次郎の流派にちなんで、巌流島と呼ばれるようになりました。
おふれがき
一、施設をよごすべからず
一、ごみをすてるべからず
一、立ち入り禁止部分に入るべからず
一、海で泳ぐべからず
一、はり紙や広告をはるべからず
一、焚き火や直火とするべからず

    巌流島奉行 下関市長
巌流島の立て札より転載

巌流島の公園として整備されている部分は、何もないと言われればその通りで、数箇所の休憩所とトイレ一箇所が景色のアクセントになっている位の印象。
決闘の地のため、樹木が生い茂るのもおかしいし、島の大半を占める立ち入り禁止区域に何かがありそうかというと、雑木と雑草ばかりで使用されている様子も無い。


その東屋の中にいくつかのパネルが貼ってあった。

巌流島の決闘

慶長17年(1612年)4月13日。
船の形に似ていることから、 「舟島」 と呼ばれる彦島沖に浮かぶ小島で、武蔵・小次郎が雌雄を決した。小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。試合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島へ。
「武蔵!遅参とは何事か。臆したか!。」
というや物干し竿を抜き放ち鞘は波間へ。それを見た武蔵はにやりと笑いこう叫んだ。
「小次郎破れたり!。」
巌流島東屋のパネルより転載
書物によると武蔵は2時間遅刻した事になっている。佐々木小次郎は物干し竿と言われる長い真剣を用い、武蔵は秘密兵器 櫂(かい)の改造品と短めの木刀で戦ったことになっている。正確なことが良く判らないので判断は出来にくいが、西洋での騎士同士の決闘とは、かなり趣が違うようだ。異種格闘技なら、最初から条件を決めておかないと決闘にはならないのでは

宮本武蔵

生まれは、兵庫県とも岡山県英田群宮本村ともいわれている。生涯を剣術探究に捧げ生み出した兵法が、太刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流である。
わずか13歳にして始めての仕合をかわきりに吉岡一門との仕合、大阪冬・夏の陣の激戦も経験。小次郎との 「巌流島の決闘」 等、多くの仕合に勝ってきたが、ほとんどが撲殺だともいわれている。
謎につつまれた天下無双、宮本武蔵。
巌流島東屋のパネルより転載
刀ではなく木の櫂を持つ武蔵の絵が面白い。ほとんどが撲殺だとすると、常に刀は使っていないのではという疑問がわく。
この決闘時、宮本武蔵は佐々木小次郎と親子以上に年が離れていたらしく、体力的にも小次郎は不利な状況であったのではと推察される。

佐々木小次郎

周防国岩国とも福井県足羽のうまれとも、とにかく出目、生年等ほとんどが謎につつまれている。
中条流を学び、剣の腕を磨いた、剣の天才であった。自ら厳流という流派を興し、刃渡り90センチ以上もある長刀をあやつり小倉藩の指南役に抜擢される。
頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る 「燕返し」 をもって巌流島(舟島)にて武蔵と対決す。
巌流島東屋のパネルより転載
佐々木小次郎の方も謎に包まれて小倉藩の剣術指南役であったこと位しか判らない。


巌流島から関門橋を眺める。ここから眺めると下関側の火の山(左)と門司側の古城山(右)が関門海峡に向かって対峙しているように見える。
現在では九州と本州、福岡県と山口県と別れていはいるがあまりの近さゆえに文化、経済的には下関市と北九州市は一体となっている。