登頂口には寛政年間の戸山尾州邸園池全図があり当時の庭園がしのばれる。現在も残っているのは箱根山だけというのは少し寂しい。
箱根山地区の歴史
この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と戸山村の両村に属していたころから 「和田外山」と呼ばれていた。
寛文八年(1668)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千坪(約四十四万八千八百余㎡)に及び、「戸山荘」 と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文9年(1669)に工事を始め、天和(1681~1683)・貞享(1684~1687)の時代を経て元禄年間(1688~1703)に完成した回遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔(しゃしどうとう)・茶屋なども配した二十五の景勝地が造られていた。
なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789~1800)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙をつけしめたほどであった。
安政年間(1854~1859)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868)を迎えた。
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の講演となった。
陸軍用地の頃から誰ともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
平成二年三月公園整備を記念して 東京都
箱根山の立て札より
いよいよ箱根山に登山開始。三方から階段が付いていて登れるようになっている。意外と険しい山道なのでお年を召した方は足元に注意。