江ノ島鎌倉名勝巡覧


明治十六年七月九日御届
同 七月 出版

編集兼出版人
東京府平民 法木徳兵衛
日本橋区元大坂町十一番地
発兌人 永野茂八
神奈川県下相模国江ノ島

全95ページ中江の島に関する19ページ分を掲載

江ノ島(続き)


稚児が淵

龍窟へ下りる崖下右の方海面碧水あたかも藍の如くなる所を言うなり

往昔建長寺広徳庵に自休坊主といえる沙門あり そは奥州信夫の人にてある時宿願ありて江の島に詣ずる山中にて美少年に遭う 坊主迷いの心を起こし恋慕止みがたくて伴なう僕に問えば是なん雪の下洞承院の白菊という稚児なりと答うる後人伝に文もて言い寄れど更に従う気色なけれど月日を重ね切なる思いを通じければ白菊もその情けにや忍びけねけん扇に二種の歌を記し渡し守船人に托し吾を尋ねる人あらば之を興え給いねと言い別れて入水せし名残の歌に

白菊にしのぶの里の人とはば 思い入り江のしまとこたえよ
うき事をおもい入り江の島かげに すつるいのちは波のしたくさ

かく辞世してこの淵に沈み終わりしを自休坊主慕い来りてこの歌を見つつ嘆きに咽び詩を賦す

懸崕嶮慮捨生涯 十有餘霜在刹那 花質紅顔碎岩石
娥眉翠黛接塵沙 衣襟只濕千行涙 扇子空澗二首歌
相封無言愁思切 慕鐘為孰促帰家

白菊の花の情けのふかき海に ともに入り江の島ぞうれしき

と詠じて自休も伴にこの淵に身を投げ死したりける故に稚児が淵とは名付るとぞ此処より芙蓉峯箱根伊豆の国の島々一目の中に見渡し風景いわんかたなき絶勝の地なり
この稚児が淵は龍穴碑石に接近海なれば固瀬村より前に掲ぐべきを唯名跡の存するのみにして別に見る所なければ其の古事を訪ねて淵の由縁を記すになん

小動

江の島より東の方十町余腰越村の内にあり
七里ヶ浜の西にある巌山を小動という山上に八王子の祠あり
この山の端より海中へ指し出たる松が枝の常に動けるより小動と稱したりと言う
土御門内大臣の歌に
小ゆるぎの磯の松風おとづれば ゆふるみ千鳥たちわたりけり
北条氏康の歌に
きのふ立ちけふ小動のいろのなみ いういでゆかん夕ぐれのみち
小ゆるぎの松も寝る夜や磯千鳥 詠人の名を失す

龍護山満福寺

腰越村の内にあり
当山の本尊は薬師如来にて開山の祖行基菩薩の作なりという 元暦二年五月二十四日源廷尉源義経如意のままに平家を討ち滅ぼし加旃前内府平宗盛を率いて東上す 然るにざん者の為に誣せられ右幕府の気色を損じ鎌倉中に入るを許さず この寺の宿して数ヶ月を經其の間憂鬱の情を記し因幡前司大江広元に寄せて寃を哀しむ 書読の草案なりとて今猶該寺に秘蔵せりここに其の写しを掲ぐ
編者曰く義経の腰越状たるや人口に膾炎すること年あり三尺の童児の能之を知故にあえて此処に贅せざるもの其の文章を梓行せし者多し然れども特に弁慶の真蹟を所蔵するは亦難有什物なれば再模写してここに出ず

七里ヶ浜

江の島より東の方鎌倉の行路を云う
この浜は腰越村と稲村ヶ崎の間だ関東道(六町を以って一里とする七里なり)故に七里浜を名づく古戦場にして今なお太刀の折れ或いは白骨など土砂に交わり時として掘り出すことありとぞ

行合川

七里ヶ浜の中央に流れる
日蓮上人龍の口にて難に遭い危急の時に及びて奇瑞多きは因り其の状を鎌倉に上告使節と又時頼が赦免の使者を双方この川中にて行合たるより名付けたりと


袖ヶ浦

稲村ヶ崎の海浜その形ち袖の如し故に其の名あり

順徳帝のぎょ製に
袖の浦のはなの浪にも知らざりき いかなる秋のいろにこひつつ

定家卿の歌に
袖の浦にたまらぬ玉の砕けつつ よりても遠くかえるなみかな

西行法師の歌に
引くなみに独りやねなん袖のうら さわく港によるふねもなし
みづたまらねはば月も宿らず
と詠める因縁によりて底抜けの井戸と云い伝うるなり

景清土の牢

扇が谷より化粧坂ね上る道端にあり 悪七兵衛景清の牢屋なり
扇が谷この他旧跡多くあり是より西へ藤沢駅に出る 路程二里ばかりあり