オンド・マルトノとは? 原田 節(ハラダ タカシ)



第一次世界大戦、通信兵として召集されたフランスの電気技師モリス・マルトノは三極真空管から発信される音に注目し、これをうまく音楽に利用できないだろうかと考えました。

フランス軍のドイツ占領後、ライン河畔で組織されたオーケストラのチェリスト・指揮者として活躍したほど深い造詣と愛情を音楽に抱いていたマルトノはその後10年以上にわたる探査と研究の末、1928年5月パリのオペラ座で彼の発明した新しい楽器”オンド・ミュジカル”の最初の公開演奏会を開き、センセーショナルな成功を収めました。

マルトノの教則本 クリックで拡大表示
後にオンド・マルトノあるいは単にオンド(フランス語で電波の意)と呼ばれることになったこの楽器は、2つの周波数の差を読みとって音程や音量を定めるヘテロダインという方式に依るもので、当時ヨーロッパではこの原理を応用した電波楽器が他の国でいくつか考案されました。
試作段階ではオンドもそのようなシンプルな機械の一つにすぎませんでした。  アンテナと手の間の何もない空間をコントロールせねばならず、その演奏のためにはほぼ非人間的な鍛錬が必要とされ、ついに若干の例外を除き優れた演奏家が育たなかったロシアのテルミン。

テルミン:やの雪   ピアノ:櫻澤弘子
(写真提供フィリアホール)
ドイツのトラウトニウムは次々と新しいテクノロジーをつぎこみ、機械としてより複雑化し今日の様々な電子楽器と直結しました。
同じくドイツのスフェロホンは鍵盤で和音が出せるという構造性が重要視され、マルトノの関心がオーケストラで使用される多くの楽器と同等な単旋律楽器としての可能性に向いたのとは一線を画しました。

頼近美津子さんと   (写真提供フィリアホール)
マルトノの卓越したアイディアはチェロの演奏を念頭に、ちょうど弦楽器における弦と弓の関係を電気的に置き換えたことにあります。
それは音程の決定のために糸(リボン)を張り、アーティキレーションやダイナミクスなど表情を司るトウッシュと呼ばれる繊細な特殊装置を発明したことです。
楽器のボディに当たる拡張装置に単なるスピーカーだけではなく、銅鑼や弦に共鳴させる非常にアコースティックな工夫をこらしたことも楽器としての完成を目指した重要な成果といえるでしょう。 
類いまれな可能性を秘めた楽器として、早くから多くの人が注目しました。

1931年日本での写真。モリス・マルトノと
最初のオンド・マルトノ奏者、妹のジネット・マルトノ
30~31年のシーズンには、レオポルド・ストコフスキーの招きで、モリス・マルトノと妹のジネットは大西洋を渡りカーネギー・ホールをはじめとしたアメリカ各地で演奏会を開き熱狂的な歓迎を受けました。

そのままハワイを経由して’31年の2月には日本にもやってきています。

モリス・マルトノと中央がジネット・マルトノ
1ヶ月ほどの滞在で日本の文化に触れる機会も多く、特に人形文楽に感銘を受けたそうです。

深い印象を残した一般の演奏会とともに、一行は宮中にも招かれ、特に一人のプリンセスが強い興味を抱きこの新しい楽器を弾かれたそうです。

日本におけるオンド・マルトノの先駆者本荘玲子さん
演奏を勉強する人間も増え続け、ジネットは最初のソリストとしてメシアン、ジョリヴェ、ミヨー、オネゲルといった気鋭の作曲家たちの重要な作品を初演しました。
もちろん映画やシャンソン、様々な分野でその魅力は人々の知るところとなりました。マルトノ自身もより演奏し易くとか、表現の幅を広げる(ヴィブラートが指先でかかる鍵盤も後に付け加えられる)とか、あるいは運びやすくするといったことも含めて常に自分の発明の前進に取り組みました。
けれど機能上の大きい変化は’75年にトランジスタ化されたタイプが発表された位で、’80年にお亡くなりになるまで、あくまで人間が演奏する楽器としての独自のポリシーはしっかりと守り徹したのでした。 
現在、メシアンの意志を受けて日本でオンドの制作を始めることになり、モリス・マルトノの天才を分析する作業を続けています。そこにあるのは最新のデジタル技術を持っても到達し得ない高いレベルの職人の腕と手間であり、電気回路を単純に分析しただけではレプリカさえ制作できないのです。
マルトノは楽器そのものがすでに芸術品であると言っていたそうですが、音楽に対する愛情と理解の深さがこの唯一無二のアートを生み出しました。芸術とは自分自身の言葉を探し出すことなのです。
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