江の島マニアック 厚木宿 永昌寺から長徳寺

厚木宿


永昌寺から長徳寺

岡田山永昌寺

大山・江の島・鎌倉詣で
先ほど来た道を戻り道の反対側に100m程入った所に永昌寺があります。

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カメラがちょっと変になりましたネ。他意はありません。

永昌寺

山号は岡田山、宗派は曹洞宗で功雲寺(相模原市津久井町)の末寺である。縁起によると、当初は観音堂で、貞応(じょうおう)二年(1223)に補陀絡院(ふだらくいん)、元徳元年(1329)に桂林寺、永正17年(1520)に永昌寺に改称したという。
本尊の正観音は鰻観音と呼ばれ、これは村内の鰻堀と呼ばれる堀に郡集する鰻は、本尊を礼拝しているように見えることから名付けられたという(『新編相模国風時稿』)。

五輪塔 境内には16世紀末期頃の一石造り(いっせきづくり)の五輪塔、五輪塔の水輪、宝印篋塔(ほうきょういんとう)の基礎(反花座「かえりばなざ」)

あつぎの文化財獨(ひとり)案内板より

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境内にお地蔵様達がおられました。
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寿永山長徳寺

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東名高速の下をくぐった100mほど南に進むと
長徳寺の入口が道の右手にあります。

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入口にある門柱。



長徳寺

山号は寿永山慈雲院、宗派は浄土真宗東本願寺(京都市)。開祖は浄光(建長元年<1249>)といい、もとは真言宗寺院であったが寛喜元年(1229)に親鸞が関東逗留の時、弟子となり改宗したという。本尊は阿弥陀如来像(高さ68m)である。
戦国期、当時の領主・津久井城主内藤左近将監の推挙で、天正年中に当時の小田原城主北条氏直公より寺領10石を、慶安2年(1649)に徳川家光公より寺領10石を賜るが、元禄16年(1703)の元禄大震災に本道より失火し、御朱印と秀吉の製札が焼失したという(『新編相模国風土記稿』)。
本堂 正徳元年(1711)の建立で、市内の浄土真宗本堂ではもっとも古く、また規模も大きい。大工棟梁は大山大工・明王太郎。当時の先進的な真宗の本堂様式を取り入れながら、地方的な特色も有する、貴重な建物である。

木造聖徳太子立像 父用明天皇の病気平気を祈る16歳孝養像である。美豆良に結った髪、袍(ほう)の上の袈裟、沓(くつ)をはく姿を示す。製作の時期は14世紀末頃の南北朝時代末頃とみられている。高さ113cm。

木造阿弥陀如来立像 寄木造、玉眼篏入(ぎょくがんかんにゅう)、白亳(びゃくごう)、肉髻珠(にっけいじゅ)は水晶である。全体的に平安時代後期の藤原様式を示しているが、製作時期は断定できない。

報恩講(ほうおんこう) 浄土真宗の宗祖、親鸞の徳をたたえる法会(ほうえ)で、毎年10月15日に行われる。式終了後は檀信徒により「お斎」という食事会が行われるが、昔は「お講番」と呼ばれる檀家が輪番で全ての準備を行った。

塔頭(たっちゅう) 「新編相模国風土寄稿」は順恩寺、応念寺の二村を記しているが廃寺となった。

駿河屋彦八の墓 江戸時代後期、大住郡酒井村の二代目彦八は厚木の侠客をして名を馳せた。
天保2年(1831)9月、厚木宿に止宿した渡辺崋山は「遊相日記」に「侠客彦八像」とともにその人となりを描いた。

あつぎの文化財獨(ひとり)案内板より



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山門の様子です。寿永山と金で書かれた額が設置されています。

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山門から。

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長徳寺の本殿。非常に大きな立派なものです。

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海軍中佐横山忠重碑。碑文を読むと特攻で戦死された方のようです。

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ちょうど梅が満開で綺麗な時期でした。
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