
朝倉海岸の潮干狩り 大正15年
潮干狩りが行楽として発展したのは江戸時代です。ちょうど江戸ではお昼前位に潮が引いて、ひとしきり潮干狩りを楽しんだ後、みんなでお弁当という行楽コースが確立したのも、江戸に幕府があったという、そのあたりが潮干狩りが行楽として大きく定着した原因かもしれません。
江戸時代には沖合数キロメートルまで干潟が大きく広がり、干潮時に沖合まで歩いて行くと、それだけで時間がかかり、帰りの時間も計算すると実際に沖で貝を掘る時間は非常に短くなります。貝が面白い様に採れ始めても、帰り始めないと潮が満ちて陸に戻れなくなるわけです。

本牧三渓園の前面は海で潮干狩りが出来た 大正期
そのために、乗合船や貸し切り船で潮が満ちているうちに沖に出て、潮が引けば船は動けなくなりますから、楽しく潮干狩り、そして楽しい食事、そして潮が満ちて再び船が浮き上がれば、再び乗船して帰るという豪華な一日がかりの行楽です。想像しただけでも楽しそうです。江戸の人達の日帰りの最高の行楽だったのでしょう。
何故、見て来たように書いているかというと、潮干狩りの様子を描いた浮世絵が、今も沢山残っているからです。
もちろん江戸以外の地域でも、潮干狩りは盛んに行われていた事は想像できるのですが、やはり実際の様子が絵や文章で残っていないと、我々は当時の様子を知ることが出来ません。

四季の美人 潮干狩り
潮干狩りの浮世絵は、恐らく江戸の人達を行楽へ誘う宣伝の意味もあったと考えられます。少し余裕のある人達は、そんな浮世絵を見て、船に乗って潮干狩りに行きたい、と思ったに違いありません。潮干狩り美人という美人画も多く、そちらに引き寄せられる男衆もいたのでしょう。
あの手この手で宣伝するのは今も昔も同じですね。今はレジャーが多様化して色々楽しい事も多いのですが、江戸時代からずっと庶民に親しまれてきた潮干狩りというレジャーは、今後も何があろうがアサリがいる限り、永遠に日本人のレジャーとして、定着し続けていくのではないかと思います。素晴らしい事ではありませんか。
日本海側は潮が引かない

水の出入り口は沢山あるように見えるが
潮干狩りというと海に囲まれている日本なら、どこでも出来そうですが、潮が引いた時に海に入って砂を掘って貝を採るという遊びは、太平洋側の海岸だけで、日本海側の海岸では出来ません。
何故かというと、日本海は大きく膨らんだ形状の海の南北を細くしばったような形をしています。干潮と満潮は大体6時間ごとに繰り返しますが、日本海の膨大な海の水の移動は、限られた狭い海峡だけでは、出入りが間に合わないのです。もちろん干満が無いわけではなく、多少の潮位の変動はありますが、潮干狩りに沖に出られるほどの潮位差はありません。海峡の入口が狭くても、海の形が膨らんでいなければ、海水は川のように流れ、干満の現象は起こり潮干狩りは出来ます。たとえば瀬戸内海は東は淡路島で殆ど閉じていますが、西側が開いているのと形状が川のように細長く水量も少ないので、干潮時間は東に行くほど遅れますが、干潮と満潮の現象もちゃんと起こり潮干狩りも出来ます。
潮干狩りソング第一弾 潮干狩りサンバ
https://youtu.be/8smP_we6EBc潮干狩りソングの第一弾は海にピッタリのサンバのリズムに乗せてお届けします。
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