江の島マニアック 二子神社から溝口宿へ

二子神社から溝口宿へ


大山・江の島・鎌倉詣で
二子橋を渡りきった所です。
前方斜め右の道を入っていきます。
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二子橋旧親柱

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信号を渡ったところに「ふたこはし」の旧親柱が保存してある。
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二子の渡し(ふたこのわたし)

二子橋の完成は大正14年。それまで、街道を行く人々はここ二子の渡しから多摩川を渡った。徒歩舟(かちぶね)、馬舟(うまぶね)。
川原には茶屋、蕎麦屋。
舟待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑った。

旧二子橋親柱隣りの説明プレートより



旧大山街道二子の渡し場入り口

大山・江の島・鎌倉詣で
信号から100mほどで「旧大山街道二子の渡し場入り口」の木製道標が立っています。
ただのペンキを塗った棒ですので、近いうちに立派なものになる事を期待します。
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二子神社

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二子の渡しの木製道標から50mほどで二子神社の鳥居が道路右手にあります。
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鳥居の横に大山燈篭の解説プレートがあります。

大山燈篭

大山・江の島・鎌倉詣で
大山は神奈川県中央部にある山岳で標高1,246メートル、年間降雨量が多く雨降山の別名がある。
山頂に阿夫利神社があり、山腹に不動尊で有名な大山寺がある、両者を総称して一般に大山様と呼ばれ、古くから農業、商売繁盛、技能芸能の神仏として農工商の庶民に厚く信仰された。
阿夫利神社の神官や大山寺の社僧を「御師」といった、御師は関東一円に特定の受け持ち区域を持ち常々村々を巡回した大山信仰の布教と大山講の組織作りにつとめた。
大山信仰がさかんになったのは江戸文化が発達した中期頃からで、江戸市民は多くの大山講を組織して集団で登山参拝した。
落語の題材にもなっているように、江戸から大山街道を通り伊勢原に至り大山登山参拝後は一路平塚に出て、江ノ島 鎌倉 藤沢等の名所旧跡を見物し神奈川より舟で品川に渡り江戸に帰る行程は、江戸市民が大山詣でを兼ねた、3,4泊の観光慰安旅行であった。
往来する大山詣での鈴の音は夜の大山街道に遠くからひびき、二子宿や溝口宿は大山詣での御客でにぎわった。
古くから阿夫利神社は農業の神として信仰され、特に日照りが続くと大山様に雨乞いすればかならず雨が降ると信じられた、事実雨乞いすれば不思議と雨が降った、このため各村々には早くから大山講が組織され信者は毎年7月26日の山開きには村内一定の場所に大山燈篭を建て8月27日まで、連夜かかさず灯明をつけた。
大山街道沿いに立つ大山燈篭は夜間通過する大山講中の道標ともなった。
この燈篭は当時の夏の風物詩であった、旧高津村が二子神社前に建てた実物です。総桧造りで大正末期に再築されたもので電球で灯明した、その昔は二子の渡場にう建てられ油、ローソクで灯明されていた。

このプレートのシルエットは大山を模したものです。

鳥居の横に大山燈篭の解説プレートより
ところで燈篭は何処?



大山・江の島・鎌倉詣で
江戸方面から多摩川を渡るときは舟はこの二子神社を目指していました。
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岡本かの子文学碑

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神社の横は公園になっており多摩川を愛した岡本かの子の文学碑が建っています。
碑のデザインはもちろん実子の岡本太郎画伯。
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多摩川の散歩道

岡本かの子文学碑
若くして歌人として活躍し、後に名作「老妓抄」を著し、小説家として文筆をふるった岡本かの子は明治22年、二子の旧家大貫家の長女として生まれ、若き日の一時期を当地ですごしました。幼少の頃から天才の片鱗を示しはじめていたかの子にとって、多摩川の清流が与えた影響は、はかり知れぬものがあります。子供ながらに深い憂愁や、自分でもわけのわからない熱い情熱にかかられると、かの子は、よく多摩川の河原へおりて気を鎮めたり、いつまでも物思いにふけっていたといいます。こうして、終生思慕してやまなかった多摩川への夢と憧れは、かの子文学の基調として後の作品の中に昇華していきます。
この文学碑は、昭和37年、かの子の実子岡本太郎が、建築家丹下健三や地元の多くの人々の手を借りて建立したものです。築山の上の歌碑には、歌集「わが世」の一首で、また「老妓抄」の巻末を飾る
「としとしにわが悲しみの深くしていよよ華やぐいのちなりけり」という歌が、かの子自筆で刻まれています。
副碑は、かの子のよき理解者だった亀井勝一郎の撰文を、かの子が小説の師を仰いだ川端康成の楷書でしるしたものです。多摩川を見下し、大空に向って飛び立つようにそびえているのは、「誇り」と名づけられた岡本太郎の作品で、稀有な愛で結ばれ、芸術への殉死をとげたかの子の夫一平の愛の記念碑といえます。
川崎市環境保全局緑政課

岡本かの子文学碑横の案内パネルより



二子宿

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かつての二子宿の通り。
街灯には「大山通り」の他に「二子大通り」の文字があります。
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光明寺

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二子の大通りを少し行った右手に光明寺があります。
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光明寺と二子学舎(ふたこがくしゃ)

浄土真宗光明時。江戸初期に二子塚から移された。
農民たちも一緒に移住し、二子村を形づくっていく。
明治7~9年、本堂には「二子学舎」が置かれ、近代小学教育の場となった。

光明寺入口の案内板より



大貫雪之助の墓

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大貫雪之助(晶川)は、明治20年(1887年)2月22日橘樹群高津村二子(当光明時前が元大貫家)の大貫寅吉の次男として生まれました。第1高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)と共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新誌社」に参加し、東京帝国大学英文科在学中、第2次「新思潮」が主宰する創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村壮太・後藤末雄などと共に同人として活躍し、その前途を期待されましたが、大学を卒業した年の大正元年(1912)11月2日丹毒の病で急逝しました。
当光明時境内の大貫家墓地にその墓碑があります。
高津観光協会・高津区役所

光明寺入口の案内板より
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絹色着色・聖徳太子像

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絹本着色・浄土七高祖連座像



光明寺の文化財

当寺は、真宗大谷派に属しています。
当寺所蔵の文化財のうち、絹本着色・浄土七高祖連座像は、インド・中国・日本の浄土教(浄土真宗)の祖師たちを対象構図で描いたもので、寛文12年(1672)の製作です。
絹本着色・浄土七高祖連座像は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の晩年の御姿を描いたもので、宝永2年(1705)の製作です。
絹色着色・聖徳太子像は、父・用明天皇の病気平癒(へいゆ)を祈る16歳の時の御姿を描いたもので、寛文12年(1672)の製作です。
川崎市教育委員会は、これらの絵画を、昭和61年8月28日、川崎市重要歴史記念物に指定しました。
昭和62年10月
川崎市教育委員会

光明寺入口の案内板より



溝口宿

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よもマンションを越えたあたりから街灯には「溝口大通り」の文字が見えます。

倉造りの店

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右手奥に高津図書館が見えたらすぐに田中呉服店があります。
倉造りの店として観光名所となっています。
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田中呉服店

重い瓦屋根と土の壁、母屋との境は厚い土戸。2階には頑丈な格子窓。防火、防犯など蔵の特徴を生かした重厚な店構え。田中呉服店は、明治に建築された代表的な蔵造りの店である。

田中呉服店横の案内板より

大山・江の島・鎌倉詣で
田中呉服店から100mほどで大山街道は府中街道と交差します。
信号を渡り直進します。
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